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感情を感じたくない人へ。人として成長する事は、何も感じなくなる人になるわけではないという話。

※6/4 記事の終わりにメッセージを追加しています。




いつも平穏な人、
幸せそうな人、
悟ったような人、

そういう人をみると


「~~さんって、怒るんですか?」


そんな質問をした事・された事のある人へのお話。



今、わたしのまわりには「感情を感じたくない」人が、ちらりほらりいる。




だからこそ、わたしの体験と想いを語ります。



*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆



「東さんって、怒る事あるんですか?」


以前、看護師をしている時、よく不思議がられていた。


もちろん、むかっとくるし、いらいらするし、焦るし、こわいし、いろんな感情があるけれど。


傍から見て、「怒りをぶつけてくる人」が、いかに周りを委縮させるか知っているから。


そんなにちゃんとやってほしいんだったら、逆効果じゃね?くらいにみていたから、


わたしは、特に「怒りを外に出さない・人にぶつけない」ように努めていた。





わたしは幼い頃から、怒鳴る・大きな声をだす・はしゃぐ大人が、とても苦手。


しかし幼少期は、癇癪もちでもあった。


年齢が行くほどに、
特に怒りをまき散らすタイプにはなりたくない、とクールを装うようになっていた。


そこに「拗ねる」も絡んでくる。
いわばお祭り騒ぎに入りそびれ、クールを装いながらもふてくされてイライラしているタイプ。


大人になると、
空気も読めるようになるから(的外れもあるけれど)、ちょっとおちゃらけるタイプに育つ。



・・・・・・・


さて、わたしは「怒りを外に出さない・人にぶつけない」よう努めていたから、



これは、傍から見ると一見「いい人」「怒らない人」「優しい人」

なのかもしれない。


だけれども、このパターンは決して「怒らない人」ではなく、


イライラした気持ちをいかに転換するか、
いらいら・焦っているのを外に見えないように出さないか、


それを頑張っていただけ。


・・・・・・



カウンセリング・セラピーを学び、受けだすと。


「そっか、淋しんやね。」


この一言だけで泣いてしまったのが始まり。



それだけでなく、

「優しい一言」
「褒めてくれる一言」

それだけで、泣いてしまう。


うれし泣きでなく、自分がそう思えてないからこそ、泣いてしまうのである。


あれだけ仕事では、友人の前では、平静を装えていたのに、

いとも簡単に、自分が鎧を着ていた事がバレてしまうのである。



そのうち、


「お母さん」というワードだけで泣いてしまい、

「さみしい」「むなしい」というワードで一人さめざめ泣く夜が増え、

「いのち」「いきる」というワードだけもじんわりしてしまい、




それでもしばらくは、「こんな一言で泣いてしまうわたし、なんて脆いんだろう」

そう思っていた。

その頃に、たいわ士育成講座が始まっていった。



その時のセッションで



ほんの一言で、早々に泣き出すわたし。


「こんな事ですぐに泣いてしまうわたし、脆いですね。」


それを

「どうして泣いちゃいけないの?」と一言。


・・はぁぁ!!どうしてって聞かれても・・・・!!


そう。

どうして泣いちゃいけないの?
すぐ泣く事が脆い?
脆いと、どうしてだめなの?


そう聞かれたら、実は明確な答えなんで、ないのだ。


どうして?・・・どうしてだろうね。

でも、それがずっとイヤだと思ってた。したくない事であった。


だから人前で泣くのを我慢するけど、
我慢できず泣いてしまうのって、いつも悔しいと思っていた。





そこを「許していく」と。


「今日もね、お空がなんて青いんだ。」

そう、心地よい青空を見上げて、そういう事で泣けるようになっていくのである。



・・・・・・



胎内記憶、日本の神様の話、いのちの話、グリーフケアの意味・・・

など知っていくと。



そもそもわたしたちは、


「感じたい」から、「からだ(肉体)」を持って生まれてきたと知る。


このあたりは、たましいの話。

わたしは、その記憶もないし、

今リアルタイムで見えないものが見えちゃう人ではないけれど。

そういう概念があるという前提で。(ホント・ウソは重要でない)



※※
このあたりの話は、
「池川 明」先生の 胎内記憶関連のお話の本や、
「雲 黒斎」さんの
「もっとあの世に聞いた、この世の仕組み」「もっとあの世に聞いた、この世の仕組み」
という本がお勧めです~。
(*‘∀‘)ネットでググったら出てくるよ




わたしたちは、肉体がない世界から、「わざわざ」やってきたわけで。

不自由な条件を付けて、感触や感情をとことん感じたいから、人間という肉体が必要だという。



だから、人間としてやってきたからには、そもそも「感情を感じないようになる」目的ではないはず。



一般的に

「人間ができている人」
「器が大きい人」
「素敵・安心できる人」

そのイメージとしては、

多少の事で動じず、どっしり、いつも笑顔で穏やかで、機嫌に左右されない・・・・

うんぬんあるけれど。



「〇〇さんて、いつも笑顔で、怒らない人なのですね」

そう感じずにはいれないが、そうではない。

つまりは、そういう人が、「感情を感じなくなったわけではない」という話。


・・・・・


わたしが想う、素敵な人、動じない人、頼りになる人、いつも笑顔の人・・・・

そのあたりを思い返してみても、

怒る時は怒るし、その時は、けっこう怖いのだ。

なのに、いつもはふんわり、あたたかく、その人がいるだけでなんか安心。



逆に、いつも笑顔を努めている人でも、その奥の雰囲気と言うか、

「この人 何考えているかわからん」という人もいる。
そう、たとえ笑顔であっても、温かみがない場合もあるのだ。




たとえをかえてみると。

大人になると「演歌の世界」の意味がわかり、泣けるようになっていく。
そして、それで泣けてしまう自分、なかなか悪くないもので。
あぁ、人生いろいろまみれたんだなぁ、と想うわけで。


つまり、


惚れた腫れたも経験し、酸いも甘いもわかるくらい経験を積んでいくと、

「人の許せないところ」=「自分に許していない事」
これをとことん経験した人は、どんどん「許せる事」が増えてくる。


そして、そういう経験を積んでいくと、

「感情を感じなくなる」のではなく、

よりシンプルに、自分の感情を感じられる、
自分の感情・出来事を否定して頭で押さえなくなる、
感情をやみくもに人にぶつけない、
自分が感じている事を大切にできる、



つまりは、より豊かに、繊細に、かつシンプルに感じて表現できるようになっているのだと思う。


人間として、「つらい事・悲しい事を感じなくなっていく事」が成長ではない。


一見感じていないように見えることが、感じていないわけでもない。



そうやって、自分を大切にできると、自然と周りを大切にする事へもつながっていく。


だからそこ、あらゆる感情を感じる・経験する事は、とても素晴らしいことであり、


人として、さらにパワフルになる。



わたしはそう学んだと解釈している。



・・・・・・



ただ。


「感情を感じたくなくなる」程の、つらい事も、たくさんあって。


感情を消す・抑える・なくす・・・・そうしたくなる程の出来事があった時。


そうするのは、自分を守るため。


感情を消す・抑える・なくすこと、もしかしたら、それすらも大切な感覚のひとつなのかもしれない。



ただ、わたしは「たいわ」を学んだからこそ、

この「消してしまいたい・なかったことにしてしまいたい」そう思ったその人に、

「消してしまいたい・なかったことにしてしまいたい」感情そのものも、



それも大切なんだ、と伝えていきたい。




つらすぎる時・今は向き合えない時がある。
 
そんな時は、向き合わなくていい。逃げていい。



自分を守るためには、



逃げる・ごまかす・すり替える・抑える事すら

それも自分にとって必要な時は、それを選べばいい。



それも、「たいわ」で学んだ。



しかし、世には 治療と称して、お薬でおさえる方法もある。


心理学的には、

そのごまかす方法・すり替える方法を、「テクニック」として教えているものもある。



わたし自身、精神学や心理学的な内容は好きであったが、たいわを学ぶまでは、

自分にも、人にも(勝手な)アドバイスしていたものが、

「すりかえ・ごまかし」のテクニックであったと気付いてしまった。


心のお勉強を、ずっと頭でしていた事に気が付いた。



だからこそ、そんな小手先のテクニックは、わたしは伝えない。



・・・・・・


セッションを受ける場では、

徐々に自分の気持ちを出せるようになり、その場では遠慮なく泣けるようになってきた。


ただ、それは安全な場、だと思っていたからだ。


わたしにとって、安全でない場。

それは「一番近しい人」の前。

その人だけには見せたくない姿。

だからずっと防御をしてきた。




つまり、わたしにとって「自分と向き合う」の最大のミッションは


「母親に、自分が さみしかった と告げる事」



それだけの事なのに、自分の中では
「これ以外の事は何でも頑張れるから、これだけは勘弁してくれ」という程の出来事なのだ。




母親の前では、

「頼れる娘さん」をやってきた。


どんくさいのはバレているが、それでも「しっかりした・冷静な」娘だと思われていた。

「あの頃さみしかった」なんて、終わった事今更言いたくない。

親を責める形になる事がわかるから。

だから今更、そんな事を告げる事は、ありえない事。




が。それを、実際やったのだ。



しかも、一度では終わらなかった。やってもやっても、まだ終わらんのか。



でも、最終的に、この日で終わったのだ。


過去関連記事:壇上で大号泣したわたしの理由とその後
http://ameblo.jp/jibunnwoikiru-taiwa/entry-12124078759.html


・・・・・



あれやこれやあった現在。


わたしは、なんだかんだ、たまに泣く。


お空が青い、平和だ~、とほんわり泣く時もあれば、


自分のからだに話しかけ、ごめんねって、泣く事もある。


なんでまだ独りなんだろね、虚しい。とさめざめ泣く事もある。


そう、泣くのである。ちゃんと自分のために、泣けるのである。

※※
南山みどり先生の言葉で、
「自分のために泣けない人は、映画とか(泣けるシーン)使って泣くのよ」
という言葉に激しく同意した、あの頃(笑)



そして。

「肉体を持ってうまれてきた目的」(があるとの前提で)を自分で振り返ってみると。

確かに、わたしのとって、特に大切に想う感情は「切ない」という感情。

なんかこう、
つらいもかなしいも、みじめも、そしてそこに「愛情」があるからこそ、
何とも言えないこの「切ない。」

これ、幼い時から、色々見て感じ続けているなぁ、としみじみ思うのである。



虚しい、切ない、と さめざめ泣きながらも、なんとなく「大丈夫」ってわかっているのである。

この感覚は、なんいうかね、大丈夫 としかいいようがないけれど。



そう、こんな事で泣ける自分、なかなかイイ感じなのである(笑)



*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆



と、先日記事を書いてアップしたところ。

いつもお世話になっている「石原 貴司」先生より。
この記事に対して、下記のメッセージをいただきました。

このメッセージが響く方がおらえると思い、先生のご厚意により、転記の許可をいただきました。



セラピーオフィス ラ・サルーテ 院長ブログ
http://ameblo.jp/la-salute8/


(2016.6.3 facebookのコメント欄より転記しています)

脆い自分を許す...だけでなく、私は更に褒めて上げて欲しいのです^ ^ 

何故なら、その感受性が多くの方を救えるから!

脆いというのは感受性が強いということ。その感受性があると人の傷みもわかる、共感できる、寄り添える!のです。

患者さんにもそのようにお伝えしています。すると号泣なさいます。

この感受性は誰にでも出来ることではありません。それこそ魂が選んできた課題を経験するための大切なアイテムなのですから^ ^

そして感受性=内向き(ネガティブな意味でなく人を受け入れて上げられる気の方向性)の方ばかりになれば争いは無くなります。
そう、これからの地球に必要な精神性、その大きな土台となるのが感受性なのです!ですから自分を弱いなと感じている方は「私はこれからの地球に必要な人間なんだ!それを自分で選んで生まれてきたんだ!」と自信を持って頂きたいのです^ ^

それと、私も物心ついた頃から人を見るとその人のことがとても哀れに、その人の悲しみが流れ込んでくる、そんなことを常に感じていました。その時には辛くて心を閉ざしていましたが、今となってはその感覚が治療に大きく貢献してくれています^ ^

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プロフィール

元ICU・NICU看護師/現「名もなき活動家」東 舞香

Author:元ICU・NICU看護師/現「名もなき活動家」東 舞香
ひとつの道にとどまり極めるより、あれやこれやかじって伝える事が得意。
わたしの人生経験すべて学び・ネタ!やることなすこと「活動」と称す。
そんなわたしの思ひ出作りとしての人生が、
きっと誰か必要な方への情報提供になるであろうブログ。
☆Webサイト作りました。ブログもこちらで更新中!
「名もなき活動家」東 舞香の活動拠点
http://namonaki.net/

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